今年は近年にない大雪となり長井も一時は1mを越える積雪となりました。久しぶりの大雪で、雪と格闘するのに疲れを覚えたのはわたしだけではなかったと思います。しかし、この大雪がおいしい米・そして酒の源になるものと信じています。
新酒の時期を迎え「雛の影法師」「さわのはな」のご案内をお送りします。

純米酒「鄙の影法師」

 四年前、「はえぬき・どまんなか」が山形県期待の新品種として市場に出る時、私たちは『余目の亀治さへ』という歌を作った。タイトルとなった「余目の亀治さ」は、百年ほど前、庄内地方の小出新田(現余目町)で百姓をしていた阿部亀治のこと。 本間家の小作人であった阿部亀治は、子供八人を抱える貧乏暮しに耐えながら農業技術の改善に尽くし、優良品種亀の尾を育成した人です。

 亀の尾はササニシキやコシヒカリなど、日本でうまいといわれている米のルーツとなっており、はえぬき・どまんなかもその血筋を引いている。だから私たちは、阿部亀治と亀の尾を歌った。鳴り物入りで新品種のキャンペーンをするだけでなく、その根っこに、百年前一人の百姓が育てた一つの品種があることを知っておいてほしかった。そのことが縁になり、亀治のお孫さんにあたる喜一氏から亀の尾の種籾を頂戴し、栽培している。

 亀の尾にはもう一つの顔がある。酒米としての顔である。酒米は、米粒が大きい、たん白質の含有量が少ない、心白率が高いなどの諸条件を満たしていなければならない。心白とは米の中心部の白く見える部分で、小粒の食用米にはない。心白が見えるのは、中心部の細胞が壊れて澱粉粒が散乱し、乱反射するからで、その分もろみの中で溶けやすく、糖化しやすい性質を持っている。亀の尾はそうした諸条件を満たし、山田錦などと並んで酒造好適米として珍重されている。そのことは尾瀬あきらの『夏子の酒』でつとに有名になった。 影法師が亀の尾を作っていることを知り、長井市内の造り酒屋、東洋酒造からそれで酒を造ってみたいと申し入れがあった。しかし、遊び半分で作っている米なので何分収量が少ない。やむなく亀の尾は、麹米として使われることになった。

 1994年春、影法師の亀の尾を麹にして造った酒が、純米酒「鄙の影法師」として世に出、この冬三度目の仕込みが行なわれた。しかし、酒とは不思議なもの。杜氏さんの言を借りれば「酒造りは子作りと一緒で、同じ材料、同じやり方でやっても、決して同じものはできない」のだそうだ。一昨年のような不作の年は、米が軟らかくてどんどん糖化していくが、昨年のような日照りの年は米が硬くて糖化のスピードが遅く、糖化する先から酵母が食べていくため、どうしても辛い酒になるという。

 「鄙の影法師」は純米酒ですので、ブレンドして味を調整するようなまねはできない。出来た原酒にアルコール度数の調整のために水を加えるだけ。となると、去年と今年では味が違うのは当然と言うことになる。酒とは生命が造り出すものだということに、改めて気付かされる話である。

 大手50社で販売量の約半分を占めるといわれる日本酒の世界。「大手と同じような酒を造っていたのでは、我々地方の酒蔵は生き残れない・・大切なのは個性的で押しの強い酒を造ることだ」と杜氏さんは言い切る。
個性と押しの強さ…鄙の酒が生き残る道は、私たちが、そして山形という鄙が生き残る道でもあると思う。今年も新酒のシーズンを迎え私たちの「鄙の影法師」も新しい酒が生まれようとしています。「鄙の影法師」は純米酒のためその年の米の性質が味にそのまま出てきます。さて今年はどんな仕上がりになったのか・・・

 出来たての「鄙の影法師」をお送りします。とは、言っても私たちには酒販の免許が無いので販売するわけには、まいりいません。
 で、メールなどを頂ければ、醸造元の東洋酒造から直送の手配を致します。

さわのはな復活

 はじめて「さわのはな」つくりに挑戦し、久しぶりに食した。予想以上に美味である。一箸ごとに、幸福感が口中に広がっていくような旨さである。さまざまな人に食べてもらったが、こだわりを持って米を食べている、食通の人の間でもさわのはなはすこぶる高い評価をいただいた。
 町のお米屋さんは、さわのはなの真価は夏場以降に発揮されると言う。夏場になると、大概の米は粘気がなくなりパサパサしてくるのだが、さわのはなにはなお強い粘気が残っている。そこでそのお米屋さんでは、夏場からはササニシキに混ぜて販売していたとのことである。
さわのはなの旨さに舌鼓を打つうちに、一つの大いなる疑問が沸き上ってきた。これほどの食味を持つ米が、何故傍流に追いやられてしまったのだろうかということである。

 さわのはなは昭和35年、山形県農業試験場尾花沢試験地で、農林8号を母に、a・b・cを父にして育成された。父となったa・b・cは、父方の祖父が「鄙の酒」で紹介した「亀の尾」であり、そうした意味では、山形で生まれた、極めて山形らしい米といえるだろう。
 誕生と同時に県の奨励品種となったさわのはなは、耐冷性にやや強く、耐病性もあり、美味であることから作付面積を拡大し、昭和 47年には17500haに達した。この年、自主流通米制度の創設に伴い、食味が買われて県の銘柄米に指定されてもいる。ところが、この年をピークとして、さわのはなの作付面積は年々減少していく。

 さわのはなにも弱点はあった。お百姓さんは一様に、さわのはなは「作りごわい(にくい)」と言うのだが、生育初期に低温にあうと生育の遅れが目立ち、成熟期には倒伏しやすいという傾向がある。この性質は、その頃から本格化してきた農作業の機械化にはそぐわないものであった。
 また、収量が思うように伸びないという悩みもあった。比較的安定はしているのだが、大獲れはしないのである。これでは農家の旨味はない。
 機械化、効率化という時代の流れの中で、作る側とすれば、手間がかからず、収量が上がり、気を遣わずに済む品種を求めたくなるのは道理である。こうして、管理に手数のかかるさわのはなは徐々に敬遠されていった。

 しかし、この過程で取り落としてしまったものがある。消費者という存在と、そのニーズである。さわのはなの作付けをやめるというのは生産者のニーズであり、消費者のニーズでは決してないのである。

 今、米の販売を原則的に自由化した「新食糧法」の施行をうけて、米市場の主流であるコシヒカリの作付けを増やそうという動きがあるようだが、「山形のコシヒカリ」を果たして消費者が求めているだろうか。

 私たちは、山形らしい米であるさわのはなの方が、現在の消費者のニーズを満たす力があると考えています。農家が自分のつくったものに自信が持てず不安になっている時期、私たちが出会った「さわのはな」は混迷した状況を切り開くヒントを示しているように思います。  「さわのはな」にこだわって、今年一年さまざまな行事を行って行きますのでぜひ参加ください。



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