「ひょんといのちが・・・」  あおきふみお


いともたやく   いのちが消えてく

殺められたり   自ら絶ったり

心にかかる   黒雲につられ

ひょんといのちが
            消えてゆく
ひょんといのちが
            消えてゆく

愛するいのちが   消えるはかなしい

愛するいのちを   消してもかなしい

誰もがわかって   いるはずなのに

ひょんといのちを
            なくすはかなしい
ひょんといのちを
            なくすはかなしい

いのちと心は   二つでひとつ

心がはずめば   いのちもはずむ

悲しいときは   心もなえて

ひょんといのちも
           しぼんでゆく
ひょんといのちも
           しぼんでゆく

いのちの糧は   やさしい心

ひとの痛みを   思う心

つらい人には   やさしさあげよう

ひょんといのちが
            消えぬように
ひょんといのちが
            消えぬように

肝苦りさ(ちむくりさ)

あおき・ふみお
 先般、山形新聞から『わが心の作品』というコラムの原稿依頼を受け、久々に、本当に久々に書棚から1冊の本を取り出した。灰谷健次郎の『わたしの出会った子どもたち』。20年前、私が一番苦しかった時に、幾度も幾度も読み返した本である。
 今読み直してみても、涙を禁じ得ない箇所が少なくとも二つある。一つは6歳のあおやまたかし君の次の詩。

 ごっこうからうちへかえったら/だれもおれへんねん/あたらしいおとうちゃんも/ばくのおかあちゃんもにいちゃんも/それにあかちゃんも/みんなでていってしもうたんや/あかちゃんのおしめやら/おかあちゃんのふくやら/うちのにもつがなんにもあれへん/ばくだけほってひっこしてしもうたんや/ばくだけほっとかれたんや(中略) ぽくあかちゃんようあそんだったんやで/だっこもしたった/おんぶもしたったんや/ぽくのかおみたら/じっきにわらうねんで(中略)
 きのうな/ひるごはんのひゃくえんふたあつもって/こうベデパートヘあるいていったんや/パンかわんと/こうてつジーグのもけいこうてん/おなかすいたけどな/こんどあかちゃんかえってきたら/おもちゃもかしたるねん/てにもってあるかしたろかとおもとんねん/はよかえってけえへんかな/かえってきたらええのにな

 6歳の子どもが親に捨てられるという絶望の淵に立たされながらも、なおも遠くへ行ってしまった赤ちゃんを思いやるという底知れない優しさは、深く胸をえくる。
 もう一つは、最終章のKさんという21歳の女性の手紙。

 「こんなノーとでごめんなさい。えん筆ですいません。(中略)私は学校に行く時妹をおぶって行きました。お弁当がなくてお昼はプランコに乗ってたまに先生にパンをもらって遠足の時母が前借りをして買ってくれた巻ずしが何よりうれしかった。お小ずかいが貰えず勉強はわからずクラスの人にくさいと言われ石を投げられサイフを拾って先生に持って行ったらお金は『とってないか?』と聞かれ泣いて帰ったこともあります」
 そんな悲惨な小学時代を過ごし中学に入ると、今度は「中1でじん臓で入院して退院して太っていたので水ブタといじめられてつばをはきかけられました」という目に合う。
 彼女は中卒でとある店に就職するが、その店の主人にだまされて16歳の冬に中絶する。別な店に移るが、その店でも主人に変なことをされそうになり、そのため、友達になる男の人すべてが汚く見えて、手をつないだりすると吐き気がするという悩みを抱える。
 辛酸を舐め尽くしたような人生を歩みながらも彼女は手紙に記す。
 「今私は考えます。3度の食事が出きて人と話しが出きることうれしいです。そして今までの私のした悪いこと反省します。3万円ほどの生活費ですのでいいものは買えませんが1000円の1枚のブラウスがうれしいです。ヘタパンを喜ぶ妹がかわいいです。妹は夜間の高3と中3です」
 「私は仕事がんばります。妹と力を合わせてお母さんを見て行きます。灰谷さん身体に気をつけてください。食中毒にならないよ−に。そして本たくさん書いてください。(ただしお金がないのでゆっくり書いてください)」

 「重い人生を背負っている子どもほど楽天的だった。苦しい人生を歩んでいる子どもほど優しさに満ちていた」と灰答は言うが、このあおやま君の詩とKさんの手紙はその灰谷の言葉を裏付けている。しかしながら、この優しさを無残にも踏み躙ってしまうのが、今の日本という国の実情なのである。
 私はこの本から「肝苦りさ(ちむそりさ)」という心を学んだ。沖縄の言葉である。本土の言葉に訳せば、胸が痛い、心が痛いといった意味になるだろう。本土の言葉だと、なにかうわついた感じがするのだが、「肝苦りさ」には腹の底から相手を思いやるような意味の深さがある。
あおやま君の詩を読み、Kさんの手紙を読んで私の心に沸き上がってきたものは、この肝苦りさという感情だったのだと思う。
 西暦2000年は、私にとって肝苦りさの連続だった。子どもたちが関係する悲惨な出来事があまりにも多すぎた。いのちへの畏敬の念を失った今のこの国が、本来限りなく楽天的で、限りなく優しいはずの子どもたちの心に、闇の種を植え付けたかのように思えた。 いのちというものはかけがえのない大切なものなのだという自明のことを、もう一度きちんと言っておかなければという思いに駆られた。それも、誰にでも伝わる平易な言葉で語りたかった。昨年晩秋、そんな思いが一つの歌に結実した。それが『ひよんといのちが』である。
 いのち、やさしさ、心、この歌に使われているそれらの言葉は、20年前に繰り返し読んだ『わたしの出会った子どもたち』が、私の心に遺していったものだった。

新曲「ひょんといのちが」誕生秘話
横澤 芳一

 2000年11月25日、影法師25周年の記念イベントが行われた。筑紫哲也氏はじめ、佐高信氏、そして師匠の高石ともやと豪華ゲストを迎え盛会に終わることが出来た。
 我々ははこの日まで、新曲を作りあげるのが使命だった。そして生まれた新曲が自身(自信ではなく)の感動作「ひよんといのちが」である。

曲が生まれる時

 「影法師の曲は、どんなときに作られるんですか?」時々聞かれる事がある。
 私たちはプロとは違い、必ずしも曲を作る必要はない。作りたいときに作る、至って気楽なものである。時折、必要に迫られ作ることもあったりするがその時に応じていろいろである。
 影法師の歌作りは、ほとんど詞が先である。青木が詞を書いてきたものに私がメロディーを乗せる。でも、全部が出来ることはない、本当に共感出来たものに曲がついてきた。今まで出来ずじまいになった詞もだいぶあった。
 曲が出来たときのいきさつは、それぞれにあったが「機織りの唄」の時などは詞が良すぎてそれに見合ったメロディーが生まれず2年ほど置いてようやくできたということもあった。

「白河以北一山百文」と「20年目の少年少女へ」

 今では影法師の代表作となる「白河以北一山百文」と「20年目の少年少女へ」だが、この歌が生まれたときもそうだった。
 影法師の練習日に、青木が詞を持つてきた。「ほら、これどうだ?」なんとなく自信ありげに3枚の詞をみんなの前に出した。「白河以北・・」「20年目の・・」である。「白河以北・・」が2枚、方言仕立てと標準語仕立て。
 その頃、都会から建築廃材やら処理しきれないゴミが東北へ運ばれて来ることが報道され、影法師の中でも何度も話題になっていた事を、まとめ上げ青木が書いてきたものである。それも、2バージョンで。
 「20年目の・・」は青木のそれまでのフォークソングヘの温めていた思いをまとめ上げた力作である。
「遠い世界に」や「友よ」ほか聞き覚えのあるフレーズがバッチワークのようにちりばめられている。
 さっそくギターを持ってメロディーを乗せてみる。「白河以北・・」は、標準語はどうも乗りがいまいちだ。方言編が乗れそうな感じ・・・・。「♪♪♪♪・・・」  「こんな感じでどうかな?」「おお、わりといいんでない!」「ンじや、もう一回やってみっか」「♪♪♪・・」「いいべ、これでやってみつか!」何と簡単に出来てしまった。
 ところが、次の日の朝。べつの曲「20年目の・・」の詞に曲がついた。
 はまってしまった。メロディーをつけてみてひとり感動していた。「いいなあ・・・」 その日の午後、タベの曲を忘れないうちに録音しておくために、遠藤がテープレコーダーを持って来た。
「その曲いいから、まずこっちの曲聴いて・・」同じように感激。
 そして、いま影法師の代表作として歌っている。

「ひょんといのちが」涙の誕生

 それから10年後10月末、メンバーが集まって鴨鍋でアイガモ達を供養していた。
 数日前、25周年イベントに向けて新曲のため青木が数曲詞を書きためていた。
 その中に「ひよんといのちが」もあったが、目立たなかった。そして鴨鍋の日。
 私と遠藤、そして青木の3名に私と遠藤の連れ合い2名。船山は、仕事が忙しく集まれなかった。総勢5名で蔵の中で鍋を囲んでいた。
 ほどよく酒がまわった頃、青木が改訂版「ひよんといのちが」の詞を出した。
 前回渡された詞より、余計なところがカットされてば一つと言葉が踊つていた。
 「ひよんといのちが」・・・、昨年のバスの乗っ取りや、バットによる殺人、簡単に人の命を奪う、「切れる17才」の事件が多発し、また、簡単に人の命を殺めたり、自らの命を断ってしまう人間が多い暗い世相に「人のいのち」の重さを呼びかけをするシリアスな内容の詞である。
 何となくメロディーが出てきそうな気がして、ギターを取り出してメロディーを乗せてみる。自然と言葉にメロディーがのみこまれて行く、その時言葉が躍動し始めた。
 歌っているうちに、涙が出てきた。多少の酔いはあるものの頭は冷静なのに、感情のセーブが効かないのである、すこしおおげさだが魂がふるえるのだ。
 「どうだろう?」みんなに聞く。「いい、いい!」また、10年ぶりにはLまった歌が誕生した。「ンじや、この感じでテープに吹き/込んでみっべ」また、歌い始めると、自分の子どもたちや自分の周りの子どもたちの映像が浮かんでくる。歌いながら「おい、そんなに簡単に死ぬなよ、簡単に人を殺したりするなよ、もっと、やさしくなろうよ」呼びかけが浮かんでくる。テープに吹き込みながら、もう、鼻水と涙でズルズルである。
 青木も、一緒に歌い始める。青木もズルズル。「どうも、年のせいか涙腺がゆるんでしようがない」ズルズルとティッシュでゴミ箱をいっぱいにしながら出来た曲である。
 これまでに、何回かステージで歌つてみた。かなりこらえながら歌うが、感情が先に来るとつい、スルズルになってしまう。これからも歌う機会があるだろう。
 アイガモ達の供養をしながら生まれた涙の新曲物語である。


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