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卯の花姫伝説

 前回の「三渕の神様」の稿でも触れた、長井に残る卯の花姫の伝説について記す。

 今から約950年前、前九年の役という戦争があった。奥羽完全支配の命を受け侵入した朝廷軍と、それに抗する奥羽の戦いである。朝廷軍を率いるのは源頼義、義家親子、奥羽の統領は安倍頼良(頼時)、貞任親子であった。
 安倍貞任は長井を要害の地と認め、娘である卯の花姫を遣わし治めさせていた。卯の花姫は野を駆ける鹿のように美しく、気丈な方で、兵馬の訓練も怠りなかった。
 大軍勢を率いて奥羽に攻め入りながら、苦戦を続ける敵将源頼義は、この卯の花姫に目をつけ、息子義家を近づける。義家はこう言って卯の花姫に取り入った。

 「確かに私は奥羽に兵を進め安倍氏と戦っているが、これは私の本心ではない。帝の命に背けなかったからだ。無益な戦はしたくない。貞任殿が兵を納め共に京に上ってくださるのなら、帝の信任厚い私から貞任殿と奥羽が安泰であるよう奏上つかまつるものを…。その方が血で血を洗う戦を続けるより得策だと思うのだが、何かよい方策がないものだろうか」

 戦いを一刻も早く終わらせたいという思いは卯の花姫も同じだった。義家を好ましい男と思った卯の花姫は、問われるままに安倍軍の要害、戦略を語ってしまう。
 それを聞き取るや否や義家は、してやったりと衣川に攻め入り、衣川の柵を突破する。安倍軍は最北の厨川柵で決戦を挑むが、抗戦虚しく、統領安倍貞任は討ち死にする。
 父貞任死すの報を受けた卯の花姫は、義家の甘言に惑わされた己れを悔い、責めた。ある夜、夢に現れた父貞任は、すさまじい形相の馬頭観音となり、義家を睨みつけていた。卯の花姫はすぐさま家来を呼び寄せて、夢に現れた馬頭観音を彫らせ、指の血を絞って書いた法華経八軸を納めた。
 源の軍勢はついに長井に攻め入ってきた。卯の花姫は館を捨て、一族郎党を引き連れ、朝日岩上の僧兵を頼って野川口から祝瓶山に向かった。
 三渕まで来たとき、僧兵が転がるように下りてきて、源軍が間道を通って攻めてきて、手向かうものは殺され、堂宇も皆焼き払われたと告げた。それを聞いた卯の花姫は、もはやこれ までと、高い崖から三渕に身を投じた。ついてきた一族郎党は、ある者は後を負って三渕に 飛び込み、ある者は源軍に切り込んで果てた。

 以上が長井の卯の花姫伝説である。ところが、これと同様の伝説が、安倍一族が統治した奥六郡(岩手県)の各地にもあるのだ。

 胆沢郡金ヶ崎町、ここでは白糸姫の伝説として語られる。和賀郡東和町にくると、それが真砂姫の伝説になる。猿ヶ石川の岸にある矢はぎ山では、貞任の妻が物語の対象となっている。いずれも貞任の娘や妻が、源義家の巧みな言葉に騙され、貞任の戦法の秘密を洩らしたり(白糸姫、貞任の妻)、貞任に和睦を進言したりし(真砂姫)、それがもとで貞任が敗れるという設定になっている。高橋克彦氏の『炎立つ』では、貞任の妻が義家と内通したという説を採用していた。
 奥六郡と長井、遠く隔たったこの二つの地に同じ伝説があるのは何故か、それを完全に突き止めるにはさまざまな検証が必要だが、私は民衆宗教である修験道のネットワークが祭文という形で語り伝えたものと推測する。前回も記したように、長井は朝日岩上の修験道が隆盛を見たという伝承を持ち、祭文の語り手を多く輩出している地域だからである。
 ところで、前出の『炎立つ』は全五巻の大部なのだが、私の手は第三巻の終わり、厨川の合戦の手前で止まったままである。「安倍ヶ館」という山を背にし、卯の花姫の悲話を語り継いできた地の者としては、安倍一族の最期がやはり辛いのである。