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昔、フォークソングが…

 なぎら健壱というフォークシンガーがいる。天然パーマの髪に黒縁の眼鏡をかけ、チョビ髭をはやした小太りのオッサンというと、「ああ」と思い出される方もいるかもしれない。今は司会やレポーターの仕事が多いが、中身はフォークシンガーである。この夏NHKのBSで放映された「宵々山コンサート」に彼が出ていたのだが、そのうまさには舌を巻いた。

 そのなぎらが本を出した。『日本フォーク私的大全』(筑摩書房)という。

 60年代後半から70年代初めにかけて興った日本のフォークソングムーブメント。その直中にいた人間だけが語り得る、数々のエピソードに満ちた日本フォーク史である。
 この本には、日本フォークの勃興時から今日まで、筆者と親交のあった、あるいは畏敬の念をもって見つめてきた数々の歌い手が登場する。章を構成しているのは高石ともや、岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司、加川良、三上寛、斎藤哲夫、吉田拓郎、武蔵野たんぽぽ団、RCサクセション、泉谷しげる、もんたよしのり、友川かずき、井上陽水、なぎら健壱の各氏だが、本文の中にはもっと夥しい数の歌い手、ミュージシャンが紹介されている。

 これらの名前を呼んでいくと、私の胸に懐かしさとともにある種の切なさ、無念さがこみあげてくる。この中で今だに影響力を保持できている人は何人いるだろう。少なくとも1980年までは、彼らの歌は大手レコード会社がこぞって発売していた。しかし、80年代というバブルの時代が、彼らの多くを傍流に押しやってしまい、その人たちは自主制作という形でしか歌を世に出せなくなってしまった。時世に合わなくなったということだろう。
 私が切ないと思うのは、喝采を浴びて世に出、当時の若者の生き方に大きな影響を及ぼした彼らが、今自分が歌う場を探すのに汲々としているという事実に対してであり、無念と思うのは、日本のフォークソングという文化が一過性の熱病のように過ぎてしまい、育たなかったことに対してである。

 フォークソング文化とは如何なるものか、長くなるがなぎらの言葉を引用しよう。

 「戦後若者の心をとらえた音楽は数々あった。(中略)しかしそのどれもが当たり前だが演じ手、聞き手がいての音楽であった。言わば演じる側と、聴く側には境界線があった。ところがフォークソングは、その境界線を取り払った音楽であった。プロはプロ、アマチュアはアマチュアの図式を崩した。昨日まで自分の部屋や、路上で歌っていたアンちゃんが、今日はステージで歌っているのである。そしてそれまでの音楽と著しく違っていたのは、歌い手自らが作詞家であり、作曲家であった点である。(中略)規制の作曲家、作詞家が創ったものではなく、自分たちの耳で、眼で、身体で感じたものを率直に表現したのである」

 それが面的に大きく広がり、人が歌を作り歌うことが当たり前となることをフォークソングは目指した。しかし、フォークソングが若者の間に指示を広げ、ビジネスが成り立つようになった時、変質が始まる。なぎらは痛切に結ぶ。「短期間に市民権を得たフォークソングは、短期間で歌謡曲と同じ扱いを受けるようになっていく」と。そして、バブルに沈むのである。

 テレビでフォークソングの特番などをやっているが、首を傾げざるをえない。「昔、フォークソングが流れていた」とばかり、いつもあの時代、学生運動、安保闘争、ベトナム反戦運動の燃え盛ったあの時代とセットで語られてしまうのはくやしい。フォークソングに今はないというのか。

 なぎら健壱も私たち影法師も同世代。今と格闘しつつ、フォークソングの精神を大切に守りながら歌っているのだが…。