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白河以北一山百文

 私たちフォークグループ影法師の持ち歌に「白河以北一山百文」というのがある。数年前の東北ゴミ戦争、都市のゴミが東北に押し寄せるという問題を発端として作られた歌である。

 この歌に「白河以北一山百文」というタイトルをつけたのは、ゴミの流入という問題に、戊辰戦争=明治維新の勝者と敗者、中央対東北の構図が端的に現れていると思えたからであった。

 東北にゴミを持ち込むのは、「あそこは遅れている」「山ばかりで人もいないから影響も少ない」「民意も低い」と考えるからであり、それを甘んじて受けるのは、長い間理不尽な扱いを受け身についた「長いものには巻かれろ」という習性と、その代わりの何かを期待するおねだり体質からである。そこには「一山百文」と侮った者の傲慢と、蔑まれた者の卑屈がある。

 今から127年前の明治元年、東北は戦争をしていた。相手は王政復古を成し遂げたばかりの、薩摩、長州を中心とする明治新政府の官軍である。この年の干支は戊辰であったので、この戦争を戊辰戦争という。
 できたばかりでまだ基盤が脆弱な明治新政府は、体制を盤石なものとするため、武力によってその威光を示す必要を感じ、幕府方勢力の追討に乗り出した。細かい経緯は省くが、東北諸藩はこれに強く反発、奥羽列藩同盟を結んで独自の北方政権の樹立を目指し、ついに全面戦争に入った。
 東北が西の政権と戦うのは、これで5度目である。蝦夷征伐、前九年・後三年の役、奥州征伐、太閤仕置、そしてこの戊辰戦争。この中で東北が自ら攻め入った戦争は一度もない。すべて西の政権が、東北の支配を目論んで仕掛けてきた征服戦争である。そして、東北はその都度敗れ、敗者の屈辱を味わうことになる。
 前例に漏れず、今回の戊辰戦争も奥羽列藩同盟の惨敗に終った。そして投げ付けられたのが、あの忌まわしい言葉、「白河以北一山百文」であった。白河の関(福島県白河市)から北、つまり東北は一山で百文ぐらいの値打ちしかないと言ったこの言葉は、以後屈辱的なレッテルとして東北に貼りついていく。
 この発言者は不明であるが、東北に進攻した官軍兵士が抱いた、例えば「当秋田僻遠の土地柄(中略)世間よりは諸事開け方凡そ20年程も相後れ」(初代秋田県令島義男・旧佐賀藩士)といった気分が吐かせた言葉だろう。

 彼らの眼には、東北の手付かずの山々が奇異に映ったことと思う。「何故この山々に換金性の高い樹木を植栽し生産性を高めないのか。後れている」と。そういう眼で見れば、東北の山々は一山百文であろう。しかし、縄文文化を受け継ぐ東北の人たちにとっては、それは「宝の山」なのである。人は山に生かされているのだと考えれば東北は豊かだし、山は人のために活用するものだと考えれば、東北は貧しく後れた地域となる。東北と西南日本との間には、縄文と弥生という基層文化の違いが横たわっているのだ。

 127年間、東北は後れた地域として侮辱され、揶揄され続けてきた。私たちも後れていることを恥じ、進んでいる地域と肩を並べられるよう開発を願望してきた。私たちもいつしか西南日本の眼で東北を見るようになり、東北人でありながら東北的なるものを否定するようになっていたのである。今こそその愚に気付くべきであろう。

 127年前、西南日本の諸藩が西欧を真似て造ったこの国は、今や文明の病に侵されて根腐れを起こしている。この国を救えるのは、縄文文化を基層とし、自然と調和して生きてきた東北的な生き方なのだ。
 「一山百文」のはずの東北の山が世界遺産に登録される今日、後れてると言われたらこう言い返そう。後れた者が勝ちになる、と。