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「叙情」と「叙事」と

 私たちフォークソング・グループ影法師の結成20周年を記念するイベントが、昨年(1994年)11月20日、長井市の置賜生涯学習プラザであった。

 フォークシンガーの高石ともや(京都)、周防猿回しを復活させた猿舞座の村崎修二(山口県周東町)、坂野比呂志大道芸塾の上島敏昭(東京)、在日韓国人二世の李陽雨(下関)、東京労音事務局長の植田和成(東京)、地元勢として縄文太鼓、NO−SIDE、安部充宣が出演、音響が愛知県のパディー・サウンド(豊橋)と、奇しくも山形県を北限とした新幹線沿いの関東、東海、近畿、中国の各地からつわものが集まる形となった。

 コンサートは言わずもがなだが、その後の祝賀会も極めて刺激的だった。歌とスピーチで影法師の20年を振り返ったのだが、その中で大きな話題となったのが日本の歌の「叙情」と「叙事」のことであった。

 それは、村崎修二が「影法師は叙事詩を歌う、日本にはないグループだ」と喝破したことに始まる。そして、我らが師匠高石ともやがこんな話を披露した。その日共演したフィドル奏者、ジェイ・グレッグが話したことである。
 「ジェイには彼ら(影法師)の歌っていることはほとんどわかりません。にもかかわらず、彼らとお客さんのやりとりを見て、すばらしいシンガーたちだねって言うんですよ。そして続けて、世界の動きを扱うアメリカの月刊誌の今月の表紙が77歳のピート・シーガーだったんだよって、ポツンと言ったんです。ピート・シーガーはクリアウォーター・リバイバルという、ハドソン川をきれいにしようというキャンペーンを25年間続け、本当にきれいにしてしまった人です。そんなピート・シーガーの姿と影法師が、ジェイの中で重なり合ったんですね」

 師匠高石ともやのそのまた師匠にあたるピート・シーガーと類えられるなんて、光栄過ぎて面映ゆい。
 ピート・シーガーは「フォークソングの父」とでも言うべき人。1940年代から活動を始め、各地を訪ね歩いてさまざまな民謡を採集し広めていく一方、40年代の労働運動、50年代のレッド・パージ、60年代の公民権運動やベトナム反戦運動、70年代からのエコロジー運動と、一貫して闘いの先頭に立って歌い続けてきた。
 その歌は、無論叙情詩もあるが、圧倒的に叙事詩だった。
「あの町でこんなことがあった。この国でこんなことが起きている。みんなどう思う?」、そういう歌をずっと歌い続け、人々の目を開かせてきた。

 日本でフォークソングが歌われ出した頃、ピート・シーガーの影響を受けた人がたくさん出て、叙事詩を歌っていた。しかし、日本は情緒民族の国、童謡から演歌、民謡まで叙情一色という音楽風土の中で、叙事詩の命は短かった。フォークソングが「フォーク」と呼ばれて大衆化し、ニュー・ミュージックという音楽産業のドル箱と化す過程で、叙事詩を歌う人は急速に減り、やがてすべてが叙情に収斂されていった。

 その死んだはずの叙事詩が、どっこい、日本のこんなところで、長井という日本の田舎の叙情を漂わせる町で生きていたのだ。

 影法師は図らずも叙事詩を歌うようになった。叙情から始まり、齢を重ねるにつれて自然に叙事詩が生まれ、やがてそれが中心になってきた。村崎修二に指摘されるまでは、自分たちの歌が叙事詩だという意識すらなかったのだから、まさに「図らずも」である。

 昨年、影法師の演奏回数は50回を超えた。仕事を持ち、生活を抱えながら歌える限界をはるかに超えた回数だ。何故だろう。図らずも生まれた影法師の叙事詩が、叙情の氾濫で溺れそうになっている現代人には新鮮に聞こえるのだろうか。