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『つらい時代』を越えて、『美しい村』へ

ユートピア:現実の社会に不満をもつ人が夢想する理想的な楽土

(岩波国語辞典第三版)

 1985年、影法師は楽土を歌った『美しい村』という曲を作った。
 1985年、この年、プラザ合意でドル高是正、低金利政策が容認され、これを機に経済のバブル化が始まった。“新人類”は宮殿ディスコで踊り狂い、女たちが女王化し、男はアッシーだ、メッシーだ、ミツグ君だと女たちに仕える存在と化し、金回りが良くなったオヤジたちは、株や、不動産や、ゴルフ会員券に投資し、企業戦士は24時間戦いながら、国中が日夜を問わず乱痴気騒ぎを繰り広げていた。
 この国が盛んに泡立ち始めたその時に、影法師は、その対極にある世界を歌った。それが『美しい村』だった。

			水車がガタゴト音をたて 子供たちの声がはずむ
			朝日はゆっくり顔を出し 夕日はのんびり山に隠れる
			そんな美しい村はないか どこかにそんな村はないか

			仕事を終えた大人たちは 子供を抱いて夕日を見送る
			お年寄りはより添って 昔語りに目を細める
			そんな美しい村はないか どこかにそんな村はないか

			誰もが楽しい仕事をし 疲れた顔の人はいない
			恋人たちは頬よせあい 静かな時が流れてゆく
			そんな美しい村はないか どこかにそんな村はないか

 ノスタルジーで歌ったのではない。未来に産み落とすべき世界として描いたのが『美しい村』だった。
 この狂乱がいつまでも続くわけがない。必ずや、終焉を迎える日がくる。その時、この国の人々は、大きな傷を負っていることだろう。厭離穢土、欣求浄土。その傷ついた人たちはきっと、己が命を細らす虚妄の社会から離れ、命を癒す共生の世界を目指すはずだ、そんな思いが私にこの詞を書かせた。いや、この歌だけではなく、この時期に書いた『ある農業青年の主張』、『緑の中へ土の上へ』、『舵を失くしたこの日本(くに)は』などには、そんな思いが色濃く反映している。
 当然のことながら、うけなかった。時代を支配しているのは泡踊りをするために大音量で流されるビートであって、思いや言葉ではなかった。『美しい村』も何度か歌ってはみたものの、扱いきれずにお蔵に入ってしまった。
 しかし、見えたのだと思う。自分が希求する楽土がいかなるものかが。以後、影法師の歌は、楽土に参りたいが故に、楽土とはかけ離れた現実世界に厳しい言葉を浴びせていくようになる。
 バブル末期の1990年、『美しい村』が復活する。きっかけを与えてくれたのは師匠の高石ともやだった。コンサート後の酒席で、「こういう歌があって、いい歌なんだけど歌いきれないでいる」と言って聞いてもらったら、「そんな美しい村はないか どこかにそんな村はないか…、ここに思いを込めなさい。遠くに離れている人に届くほどの思いが込められれば生きてきます」と教えられた。以後この歌は、コンサートの最後の曲として、ずっと歌い続けている。
 『美しい村』が誕生して20年になる。予想通りバブルははじけ、あの時湯水のように使われた金は、不良債券と言うツケになって、この国の経済に重くのしかかっている。経済破綻の予感が人々の活動を鈍らせ、デフレスパイラルという袋小路に入り込み、にっちもさっちもいかないのが現状である。衰退期に入った企業は合併や分社を繰り返し、その都度人々の首が切られ、「職安で働かせろよこの盛況」と川柳に詠まれるほど街に失業者が溢れ出している。
 この地は下請企業の街である。ローコストの労働力を提供しこの国の経済を下支えしてきたのだが、仕事のない時代には真っ先に切られていく。企業の倒産や合理化で、職を失った人はゴロゴロといるのだが、残った企業もどこもギリギリのところで生きていて、雇用できる力がない。ただでさえ寂しい街が、一層寂しくなってしまった。
 『つらい時代』である。こんな時代だからこそ、『美しい村』を心を込めてていねいに歌っていきたい。影法師の楽土への思いが、1人、また1人と伝わっていった時、『美しい村』は空想の理想郷ではなく、楽土として現実に立ち現れてくるのかも知れないから。